2007年02月
続き
年齢は三十八歳、環境計量士であり、薬剤師でもある。小柄だが、がっしりした体格で、髪の生え際が広く後退していた。
スピ―ドを落としながら真っ直ぐ二百メ―トルばかり進むと左側に喫茶店があり、小菅は、疲れたからちょっと休んでいこう、と言い出した。
「そのあと僕は、ここから歩いて久保田さんの家に行きます」
「わかった。会社には俺一人で戻るよ。そうか、君の気持ちもわからんでもないが…とんだ災難だな。しかし、そう心配することなんかないんじゃないのか。分析の責任は、北村さんが負っているんだから、彼に任せておけば済むことじゃないか」
「そういうわけにもいかないんです。それに北村さんは、近々行われる経済産業省の立ち入り検査に備えて、久保田さんにデ―タの見直しを頼んでいましたから、その様子も兼ねてです」
スピ―ドを落としながら真っ直ぐ二百メ―トルばかり進むと左側に喫茶店があり、小菅は、疲れたからちょっと休んでいこう、と言い出した。
「そのあと僕は、ここから歩いて久保田さんの家に行きます」
「わかった。会社には俺一人で戻るよ。そうか、君の気持ちもわからんでもないが…とんだ災難だな。しかし、そう心配することなんかないんじゃないのか。分析の責任は、北村さんが負っているんだから、彼に任せておけば済むことじゃないか」
「そういうわけにもいかないんです。それに北村さんは、近々行われる経済産業省の立ち入り検査に備えて、久保田さんにデ―タの見直しを頼んでいましたから、その様子も兼ねてです」
続き
「この測定の分析は、どなたがやられたのですか?」
その声にはっとして顔を上げた朝倉の目に、貧乏ゆすりしている小林の顔が写った。 「え―と、これは久保田です。間違いありません」
「久保田?」
「ええ、北村と同じように環境計量士です」
久保田伸幸は、五年前に財団法人、日本公衆衛生分析センタ―から転職してきたのだった。転職の理由はわからないが、噂では、中央省庁との接待が発覚し、そのために閑職に追いやられたことが原因らしい。年齢は三十八歳だったが、髪は黒く筋肉質で、朝倉よりも若く見えた。
「このクロマトグラムですが、よく取れていますね。ゴ―ストピ―クやエ―ジング不足によるベ―スラインの変動が全くない」
その声にはっとして顔を上げた朝倉の目に、貧乏ゆすりしている小林の顔が写った。 「え―と、これは久保田です。間違いありません」
「久保田?」
「ええ、北村と同じように環境計量士です」
久保田伸幸は、五年前に財団法人、日本公衆衛生分析センタ―から転職してきたのだった。転職の理由はわからないが、噂では、中央省庁との接待が発覚し、そのために閑職に追いやられたことが原因らしい。年齢は三十八歳だったが、髪は黒く筋肉質で、朝倉よりも若く見えた。
「このクロマトグラムですが、よく取れていますね。ゴ―ストピ―クやエ―ジング不足によるベ―スラインの変動が全くない」
続き
「駄目ですよ。正確な数字がわからないじゃないですか」
女は、悪ふざけのつもりだったらしいが、その表情には、分析結果を悪くして、やっぱり身体に影響があることを経営者にわからせてやれ、という被害者心理が見て取れた。朝倉は穏やかに対応しながらも、分析結果に不安を抱いた。 二日後、トルエンやキシレンのクロマトグラムを見ると、ピ―クが異常に高かった。しかも、ある測定点では、トルエンのピ―クにテ―リング現象が発生し、その上、本来出現しないはずのゴ―ストピ―クらしいものまで現れ、正しくピ―ク面積が測れない状態の捕集袋が二個あった。サンプリングに問題があったことは、明らかである。そのことについて北村からも聞かれたが、朝倉は言葉を濁した。ただ、再測定させてほしい、とだけは話した。しかし、実現しなかった。やがて不検出とタイプされた報告書が、昭和工業に送られたのだった。
女は、悪ふざけのつもりだったらしいが、その表情には、分析結果を悪くして、やっぱり身体に影響があることを経営者にわからせてやれ、という被害者心理が見て取れた。朝倉は穏やかに対応しながらも、分析結果に不安を抱いた。 二日後、トルエンやキシレンのクロマトグラムを見ると、ピ―クが異常に高かった。しかも、ある測定点では、トルエンのピ―クにテ―リング現象が発生し、その上、本来出現しないはずのゴ―ストピ―クらしいものまで現れ、正しくピ―ク面積が測れない状態の捕集袋が二個あった。サンプリングに問題があったことは、明らかである。そのことについて北村からも聞かれたが、朝倉は言葉を濁した。ただ、再測定させてほしい、とだけは話した。しかし、実現しなかった。やがて不検出とタイプされた報告書が、昭和工業に送られたのだった。
続き
「調べた後は、どうするんですか?」
一瞬、朝倉は、言葉につまり目を伏せて自分の親指の爪をじっと見つめた。そしてその指を口に持っていき、指を噛み始めた。何かを考える時の朝倉の癖だった。ちょっとしてから、
「もし、サンプリングが間違っていたら、デザインからやり直します」
朝倉は、小林の目を見ないようにしながら言った。コストや信用の面から考えて、そんなことは有り得なかった。朝倉は宙を見据えながら、小林が次に何を聞いてくるか頭の中で考えていた。
「例えば、ここに昭和工業という報告書がありますが、このデザインは適切だったんですかね?」
昭和工業? 朝倉には、ピンとこなかった。何ぶんにも測定場所の数が非常に多く、それらの全てをいちいち覚えていなかった。
朝倉は、身を乗り出し、小林が指で押さえていたペ―ジを見た。すると小林は、すかさず分析記録を朝倉にもわかるように引っくり返した。朝倉はそれを手前に引き寄せると、ペ―ジを繰って表紙のタイトル文字の左上端を見た。
一瞬、朝倉は、言葉につまり目を伏せて自分の親指の爪をじっと見つめた。そしてその指を口に持っていき、指を噛み始めた。何かを考える時の朝倉の癖だった。ちょっとしてから、
「もし、サンプリングが間違っていたら、デザインからやり直します」
朝倉は、小林の目を見ないようにしながら言った。コストや信用の面から考えて、そんなことは有り得なかった。朝倉は宙を見据えながら、小林が次に何を聞いてくるか頭の中で考えていた。
「例えば、ここに昭和工業という報告書がありますが、このデザインは適切だったんですかね?」
昭和工業? 朝倉には、ピンとこなかった。何ぶんにも測定場所の数が非常に多く、それらの全てをいちいち覚えていなかった。
朝倉は、身を乗り出し、小林が指で押さえていたペ―ジを見た。すると小林は、すかさず分析記録を朝倉にもわかるように引っくり返した。朝倉はそれを手前に引き寄せると、ペ―ジを繰って表紙のタイトル文字の左上端を見た。
続き
やがて、安藤刑事が口火を切った。
「あまり難しいことは私にはわかりませんが、測定記録と書かれたペ―ジを見ると、分析者は、朝倉さんのお名前になっています。ところが、表紙の作業環境測定報告書には、北村誠二となっていますね。これは?」
安藤は、朝倉が持ってきた分析記録のペ―ジを繰りながら言った。
「はあ。北村は、会社を代表して分析に責任を負っているんです」
「と、言いますと…」
ペ―ジを繰っていた安藤の手が止まり、顔を朝倉のほうに向けた。
「ご存じかとは思いますが、我々の会社は、第三者から依頼を受けて分析を行っている計量証明事業所です。管轄は経済産業省で計量証明を行う者は、東京都へ登録しなければならず、同時に環境計量士を置くことが法律で義務づけられています。そこには、代表して北村の名前を届けてあるんです。しかし、実際には北村が一人で全ての分析を行うのは不可能なので、分担を決めてやっているんです。こちらの作業環境測定というのは、管轄は厚生労働省で今度は労働基準局長の登録が必要です。それについても代表して北村の名前を届けてあります。この測定の義務がある作業場というのは、大変な数ですし、それに例えば、メッキ工場のようにシアン化ナトリウムを取り扱う作業場だったら、六ヶ月以内ごとに一回と、測定の頻度も法律で決められています。そうなると、現場で、サンプリングするだけでも大変なわけです」
「あまり難しいことは私にはわかりませんが、測定記録と書かれたペ―ジを見ると、分析者は、朝倉さんのお名前になっています。ところが、表紙の作業環境測定報告書には、北村誠二となっていますね。これは?」
安藤は、朝倉が持ってきた分析記録のペ―ジを繰りながら言った。
「はあ。北村は、会社を代表して分析に責任を負っているんです」
「と、言いますと…」
ペ―ジを繰っていた安藤の手が止まり、顔を朝倉のほうに向けた。
「ご存じかとは思いますが、我々の会社は、第三者から依頼を受けて分析を行っている計量証明事業所です。管轄は経済産業省で計量証明を行う者は、東京都へ登録しなければならず、同時に環境計量士を置くことが法律で義務づけられています。そこには、代表して北村の名前を届けてあるんです。しかし、実際には北村が一人で全ての分析を行うのは不可能なので、分担を決めてやっているんです。こちらの作業環境測定というのは、管轄は厚生労働省で今度は労働基準局長の登録が必要です。それについても代表して北村の名前を届けてあります。この測定の義務がある作業場というのは、大変な数ですし、それに例えば、メッキ工場のようにシアン化ナトリウムを取り扱う作業場だったら、六ヶ月以内ごとに一回と、測定の頻度も法律で決められています。そうなると、現場で、サンプリングするだけでも大変なわけです」
続き
「本来なら、こちらから出向かなければいけないところを、わざわざ御足労いただいて恐縮です。それに、何ぶん場所がなくて、こちらですいませんが…」
と言って、斜め前の部室のドアを開けた。ふと見上げると、プラスチックの板に取調室と書かれている。取調室? 朝倉は、一瞬眉をひそめた。安藤刑事にうながされて中に入ると、三人もいたら息苦しさを覚えるくらいとても狭い部屋だった。白い壁の上のほうには、鉄格子のついた小さな窓があり、天井には裸電球がぶら下がっている。安藤は、ブル―のワイシャツの袖を少しまくりながら、
「気を楽にしていただいて結構ですよ。大したことじゃありませんから…。それで、例のものは、お持ちいただけましたか」
「ええ」
朝倉は、さっきからずっと緊張していたせいか、口の中が乾いていた。その時、不意にドアが開いて、眼鏡をかけた三十歳半ばくらいの男が安藤刑事の傍に立った。安藤刑事が簡単に紹介すると、男はポケットを探り、名刺を差し出した。名刺には、
と言って、斜め前の部室のドアを開けた。ふと見上げると、プラスチックの板に取調室と書かれている。取調室? 朝倉は、一瞬眉をひそめた。安藤刑事にうながされて中に入ると、三人もいたら息苦しさを覚えるくらいとても狭い部屋だった。白い壁の上のほうには、鉄格子のついた小さな窓があり、天井には裸電球がぶら下がっている。安藤は、ブル―のワイシャツの袖を少しまくりながら、
「気を楽にしていただいて結構ですよ。大したことじゃありませんから…。それで、例のものは、お持ちいただけましたか」
「ええ」
朝倉は、さっきからずっと緊張していたせいか、口の中が乾いていた。その時、不意にドアが開いて、眼鏡をかけた三十歳半ばくらいの男が安藤刑事の傍に立った。安藤刑事が簡単に紹介すると、男はポケットを探り、名刺を差し出した。名刺には、

