2007年02月

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 喫茶店『ドルフィン』は、通りに面した雑居ビルの一階にあった。外からはわからなかったが、ドアを押して中に入ってみると、奥行きがあり、かなり広い店だった。すぐに白いブラウスの女店員が、                           
「いらっしゃいませ。お一人ですか?」             
 と言って近づいてきた。カウンタ―の横に立っていた男の店員も朝倉のほうを振り返りながら、作り笑いをした。        
「いえ、もう一人来ますから…」                
 女店員は、メニュ―を脇にはさむと、二人掛けのテ―ブル席へ案内した。しばらくして小菅が戻ってきた。  
「こんな時間でも、結構混んでいるんだな。どうした? そんな難しい顔をして…。昨日のことか?」               
 朝倉は、頷く。

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「ところで、今、何時だい?」                
「え―と、九時四十分です」                  
 朝倉は、ダウン・ジャケットの袖をまくりながら答えた。   
「悪いけど、先に行っててくれないか。俺は、ちょっと会社に電話するから…」    「わかりました」                       
 と言って朝倉は、ドアを開けると地上に通じる坂を上っていった。


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「俺は、そういうことには反対だな。結局、少しでも基準値を超えると、報告書にして出す前に依頼してきた会社に相談して修正してしまうんだから…。デ―タというのは、そういうもんじゃないと思うがね」 
 小菅は、熱がこもっていた。
「ええ。ただ、そういうふうに考えない人間が多いんです」
 朝倉は、仕方がないという顔をした。            
「これじゃ、問題なんか見つかりっこないさ」 
 そう言いながら小菅は、ハンドルを左にきり、車を地下の駐車場に入れた。 


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 年齢は三十八歳、環境計量士であり、薬剤師でもある。小柄だが、がっしりした体格で、髪の生え際が広く後退していた。
 スピ―ドを落としながら真っ直ぐ二百メ―トルばかり進むと左側に喫茶店があり、小菅は、疲れたからちょっと休んでいこう、と言い出した。
「そのあと僕は、ここから歩いて久保田さんの家に行きます」
「わかった。会社には俺一人で戻るよ。そうか、君の気持ちもわからんでもないが…とんだ災難だな。しかし、そう心配することなんかないんじゃないのか。分析の責任は、北村さんが負っているんだから、彼に任せておけば済むことじゃないか」
「そういうわけにもいかないんです。それに北村さんは、近々行われる経済産業省の立ち入り検査に備えて、久保田さんにデ―タの見直しを頼んでいましたから、その様子も兼ねてです」

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 今日は、久保田が呼ばれているはずである。あいにく朝倉は、今日、久保田に会っていなかった。朝から新潟での分析の仕事があり、浦和工業団地内の鴨川でBOD測定用の植種液として二十リットルをサンプリングし、今、戻って来たところだった。
 朝倉は、運転している小菅に、久保田に会いたいので東武東上線ときわ台駅のそばで下ろしてくれるように頼んでいた。東上線のガ―ドが見えるあたりで小菅は、ブレ―キを踏んで速度を緩めた。車の頭が下がり、朝倉の姿勢がやや前屈みになる。小菅は、さっきから黙ってハンドルを握っていた。


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 昭和工業については、異常のあった二ヶ所を再測定しても、おそらく不検出になったと思う。作業環境測定をしていて、クリ―ニング業から出るパ―クロルエチレンにしろ、染色工業で扱っている六価クロムにしろ、過去に基準を超えたことは一度もない。労働基準監督官は、例えばと断って昭和工業を引き合いに出したが、あの口振りは作業環境測定全体のことを言ったのではない。果たして、昭和工業の測定では何が問題とされたのだろうか。


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 外は、雨が降り始めていた。霧に似た細かい雨だったが、雨筋は、微かな風にうねりながら車のフロントガラスにあたっている。道路は、次第に水を吸ってタイヤと路面との抵抗が増していく。辺りは暗く、アベニ―ルは、首都高速五号線を板橋本町で降りて、川越街道に向かう環七沿いを走っていた。
 小菅健二はハンドルを握りながら、くわえていた煙草を二つに折ってぽんと投げ捨てた。宙にわずかに仄白い弧を描いた煙草が、たちまち闇に溶ける。朝倉は、その先に目をやりながら、さらに頭の中を整理していた。         


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 小林は、疑っているようだった。
「別に問題はないと思いますが。詳しいことは久保田に聞かないと…」
「そうですか。久保田さんには明日にでもここに来てもらいますがね」
「あの…昭和工業の測定に何か問題があったんでしょうか?」
 暖房が効きすぎているのか、それとも朝倉だけが暑く感じるのか、額には汗が浮いている。
「いえ、例えばの話ですよ」
 と言って小林は、薄笑いを浮かべたが、安藤刑事は、すごい顔をして煙草をふかしていた。


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「この測定の分析は、どなたがやられたのですか?」       
 その声にはっとして顔を上げた朝倉の目に、貧乏ゆすりしている小林の顔が写った。 「え―と、これは久保田です。間違いありません」       
「久保田?」                        
「ええ、北村と同じように環境計量士です」           
 久保田伸幸は、五年前に財団法人、日本公衆衛生分析センタ―から転職してきたのだった。転職の理由はわからないが、噂では、中央省庁との接待が発覚し、そのために閑職に追いやられたことが原因らしい。年齢は三十八歳だったが、髪は黒く筋肉質で、朝倉よりも若く見えた。
「このクロマトグラムですが、よく取れていますね。ゴ―ストピ―クやエ―ジング不足によるベ―スラインの変動が全くない」


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「駄目ですよ。正確な数字がわからないじゃないですか」     
 女は、悪ふざけのつもりだったらしいが、その表情には、分析結果を悪くして、やっぱり身体に影響があることを経営者にわからせてやれ、という被害者心理が見て取れた。朝倉は穏やかに対応しながらも、分析結果に不安を抱いた。               二日後、トルエンやキシレンのクロマトグラムを見ると、ピ―クが異常に高かった。しかも、ある測定点では、トルエンのピ―クにテ―リング現象が発生し、その上、本来出現しないはずのゴ―ストピ―クらしいものまで現れ、正しくピ―ク面積が測れない状態の捕集袋が二個あった。サンプリングに問題があったことは、明らかである。そのことについて北村からも聞かれたが、朝倉は言葉を濁した。ただ、再測定させてほしい、とだけは話した。しかし、実現しなかった。やがて不検出とタイプされた報告書が、昭和工業に送られたのだった。

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 すると手を動かしながら、時々、朝倉のほうを振り返っていた女が、隣り同士と話を始めた。                 
「この仕事に就いてから、身体がだるく疲れやすくなったわね」  
 それを聞いていた数人の女たちも頷いている。その時、突然その中の一人が、    「このくらい近づけなきゃわかんないんじゃないの」       
 と言って笑いながら、シンナ―の染み込んだ布切れを吸引口に近づけた。朝倉は、慌ててその手を払いのけた。         


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 確か、あの日は、雨が降っていたんじゃなかったかと思う。昭和工業に着いたのは午前十時半頃で、サンプリング場所は構内を二分ぐらい奥に入ったところにあった。見ると、作業台に向かって年齢が五十歳半ばぐらいと思われる十人の女たちが作業していた。天井からは、大きなフ―ドがぶら下がり、ベルトコンベヤに乗って流れてくる部品を素早く布切れで拭いていた。部屋の中は、冷んやりしていて、何か張りつめたような空気があった。一番右端にいた女が朝倉のほうを一瞥したが、朝倉は、いつものようにフッ化ビニ―ル製の捕集袋であるテドラ―バッグを広げてサンプリングを始めた。約五分間、そこにじっとして吸引が終わるのを待っていた。    


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 報告書の日付は半年前になっており、トルエンとキシレンがガスクロマトグラフ装置で分析され、いずれも定量限界以下になっている。単位作業場所のデザインを見ると、部屋の左隅にシンナ―の缶が置かれ、中央の細長い作業台に向かって鋳物の部品をシンナ―を含んだ布切れで拭いている作業者の位置が示されている。測定点は、その作業者を中心に等間隔に十二ヶ所、選ばれていた。次第に朝倉は、はっきりと思い出した。      

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「調べた後は、どうするんですか?」  
 一瞬、朝倉は、言葉につまり目を伏せて自分の親指の爪をじっと見つめた。そしてその指を口に持っていき、指を噛み始めた。何かを考える時の朝倉の癖だった。ちょっとしてから、
「もし、サンプリングが間違っていたら、デザインからやり直します」
 朝倉は、小林の目を見ないようにしながら言った。コストや信用の面から考えて、そんなことは有り得なかった。朝倉は宙を見据えながら、小林が次に何を聞いてくるか頭の中で考えていた。
「例えば、ここに昭和工業という報告書がありますが、このデザインは適切だったんですかね?」
 昭和工業? 朝倉には、ピンとこなかった。何ぶんにも測定場所の数が非常に多く、それらの全てをいちいち覚えていなかった。 
 朝倉は、身を乗り出し、小林が指で押さえていたペ―ジを見た。すると小林は、すかさず分析記録を朝倉にもわかるように引っくり返した。朝倉はそれを手前に引き寄せると、ペ―ジを繰って表紙のタイトル文字の左上端を見た。                

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「そうですか。素人の私がこう言うのも何ですが、サンプリングと分析とを別々の者がやったら、測定結果についていい判断を下せないんじゃありませんか?」
 安藤は穏やかに言いながらも、朝倉の表情をうかがうようにした。
「そういうことはありません。分析結果に異常があれば、まず分析の操作が間違っていなかったかどうかチェックします。それが正しく行われたということであれば、次に、サンプリングは適切だったかどうか調べますから…」
 その時、小林がすかさず口をはさんだ。


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「すると具体的には、朝倉さんが現場でサンプリングしたものを北村さんが分析するわけですね」
「いえ、そうとは限りません。自分が分析することだってありますし、他の者がする時もあります」
「それは、誰がやってもいいわけですか」
 一瞬、朝倉は、小林のほうを見た。             
「いえ、この測定は、厚生労働省に登録されている者にしかできません。登録されていない者が、測定を行うことは法律で禁じられていますから…」
 傍にいた小林の唇が、微かに動いたようにみえた。


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 やがて、安藤刑事が口火を切った。
「あまり難しいことは私にはわかりませんが、測定記録と書かれたペ―ジを見ると、分析者は、朝倉さんのお名前になっています。ところが、表紙の作業環境測定報告書には、北村誠二となっていますね。これは?」
 安藤は、朝倉が持ってきた分析記録のペ―ジを繰りながら言った。
「はあ。北村は、会社を代表して分析に責任を負っているんです」
「と、言いますと…」
 ペ―ジを繰っていた安藤の手が止まり、顔を朝倉のほうに向けた。
「ご存じかとは思いますが、我々の会社は、第三者から依頼を受けて分析を行っている計量証明事業所です。管轄は経済産業省で計量証明を行う者は、東京都へ登録しなければならず、同時に環境計量士を置くことが法律で義務づけられています。そこには、代表して北村の名前を届けてあるんです。しかし、実際には北村が一人で全ての分析を行うのは不可能なので、分担を決めてやっているんです。こちらの作業環境測定というのは、管轄は厚生労働省で今度は労働基準局長の登録が必要です。それについても代表して北村の名前を届けてあります。この測定の義務がある作業場というのは、大変な数ですし、それに例えば、メッキ工場のようにシアン化ナトリウムを取り扱う作業場だったら、六ヶ月以内ごとに一回と、測定の頻度も法律で決められています。そうなると、現場で、サンプリングするだけでも大変なわけです」             


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    中央労働基準監督署 労働基準監督官 小林保彦      

 とあった。労働基準監督官! 思わず心の中でそうつぶやくと、男の顔をじっと見た。朝倉の顔には、当惑した表情が浮かんでいる。                    そもそも労働基準監督官は、何か必要があると認めた時には、朝倉が働いているような会社に立ち入り、帳簿、書類その他の物件を検査する権限が与えられているが、それは定期的に行われる厚生労働省の立ち入り検査の話である。安藤刑事と同席しているということは、何か犯罪行為にあたるようなことがあったのだろうか。益々、自分が呼ばれた理由がわからない。朝倉の額の皺は、さらに深くなった。


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「本来なら、こちらから出向かなければいけないところを、わざわざ御足労いただいて恐縮です。それに、何ぶん場所がなくて、こちらですいませんが…」
 と言って、斜め前の部室のドアを開けた。ふと見上げると、プラスチックの板に取調室と書かれている。取調室? 朝倉は、一瞬眉をひそめた。安藤刑事にうながされて中に入ると、三人もいたら息苦しさを覚えるくらいとても狭い部屋だった。白い壁の上のほうには、鉄格子のついた小さな窓があり、天井には裸電球がぶら下がっている。安藤は、ブル―のワイシャツの袖を少しまくりながら、
「気を楽にしていただいて結構ですよ。大したことじゃありませんから…。それで、例のものは、お持ちいただけましたか」
「ええ」
 朝倉は、さっきからずっと緊張していたせいか、口の中が乾いていた。その時、不意にドアが開いて、眼鏡をかけた三十歳半ばくらいの男が安藤刑事の傍に立った。安藤刑事が簡単に紹介すると、男はポケットを探り、名刺を差し出した。名刺には、


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「生活安全部というのは、どちら…」                
 と、言いかけて                      
「あっ、すいません。二階ですね」               
 と朝倉は、すぐ横の柱に書いてある文字を見ながら言った。男は口を開けて何か言おうとしたが、すぐに首を縦に振ったかと思うと、また俯いてしまった。生活安全部のフロアは、ちょうど階段を上がってすぐのところにあり、刑事部の隣りだった。朝倉はコ―トを脱ぎ、ドアを開けた。来意を告げると、すぐに四十歳ぐらいの男が現れた。髪を短く刈り上げ、顔は丸く、顎のあたりの肉がたるんでいた。男は、すばやく朝倉の身体全体を一瞥すると、安藤刑事だと名乗った。                     


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 三十五歳を迎えたばかりだというのに、髪には白いものがまじり始めている。やがてコンクリ―ト塀に、東京電機大学と太く書かれた文字が目に止まった。彼は、その隣りにある八階建ての神田警察署に呼ばれていた。                   
 一体、何事だろう。何か不安を覚えながら、ゆっくりとドアを押した。中に入ると照明を落としてあるせいか、ほの暗く、そのまま真っ直ぐ行くと急に明るくなり始め、まるで大理石の切り口のように鋭い、光りと影のコントラストを作り出していた。その先には、庶務課があり机に向かって何か書いているらしい男の頭だけが見える。朝倉の靴音に気づいたのか、その頭が不意に上がった。   


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 *
 街は無数の灯に彩られ、冷たい光を舗道に投げていた。見上げると、透明な蒼さを残した空が、高いビルの向こうに広がっている。
 朝倉博史は、会社を出ると神田駅南側のガ―ド下を通って、駅前の飲屋街を抜け、四車線の広い神田警察通りへ出た。コ―トの襟を立てながら、真っ直ぐ美土代町交差点に向かって歩く。アルコ―ルやクロロホルムの使い過ぎで、ささくれだった左手をポケットにつっこみ、右手には最近半年間の分析記録のつまった鞄を脇に抱えていた。


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「警察から電話よ」
「警察から?」
 朝倉は戸惑いながら受話器を受け取ると、低い、しわがれた声がその先から聞こえてきた。
「ええ、そうです。わかりました。これから、すぐうかがいます」

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 先程から隣の部屋では電話のベルが鳴り続けているが、誰もいないのだろうか。やがて女達の弾む声が聞こえたかと思うとすぐにその声は止み、ベルの音も鳴り止んだ。すると不意にドアが開き、白衣を着た同僚の女性が大声で朝倉を呼んだ。
「警察から電話よ」


蝶を見た

第一章 蝶を見た 



 突然、ドラフトチェンバの中で小さな爆発音がした。振り返るとケルダ―ルフラスコの底が割れて粉々に砕け散り、中の液体はホットプレ―ト上にこぼれ出し、激しい白煙を上げていた。
 もしかしたら、過塩素酸を加えた時に硝酸が揮散してなくなっていたのかもしれない。朝倉はすぐにホットプレ―トの電源を切り、ドラフトチェンバ備え付けの透明板を下に押し下げた。

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