2007年03月
続き
ゆかりの瞳が、一瞬キラリと輝いたようにみえた。好きなことをして生きたいと思うのは、朝倉も同じだった。だが、その難しさを朝倉は知っていた。
不意にゆかりは調子を変えて、
「寄るところがあってそれが済んでから伺います。お昼頃になるかと思いますが、よろしくお願いします」
と言った。ペコリと頭を下げた拍子に、脇にかかえていたバインダ―の紐が外れてテキストやノ―ト類が道路に散乱した。ゆかりは、慌てて拾い上げようとした。
その時、中腰になったゆかりの背中から腰の辺りにかけての、はっきりとした身体の線が浮き彫りになった。一つ一つ落としたものを拾い上げる度に、長い髪が顔におおいかぶさる。それをかき上げるようにする仕草が、息を呑むほど艶っぽかった。
(いい身体をしている)
朝倉は、じっとその様子を見ていた。ゆかりは、その視線に男を感じたらしく、さらりとかわそうとした。
「すいません。こんなところで時間取らせてしまって…」
不意にゆかりは調子を変えて、
「寄るところがあってそれが済んでから伺います。お昼頃になるかと思いますが、よろしくお願いします」
と言った。ペコリと頭を下げた拍子に、脇にかかえていたバインダ―の紐が外れてテキストやノ―ト類が道路に散乱した。ゆかりは、慌てて拾い上げようとした。
その時、中腰になったゆかりの背中から腰の辺りにかけての、はっきりとした身体の線が浮き彫りになった。一つ一つ落としたものを拾い上げる度に、長い髪が顔におおいかぶさる。それをかき上げるようにする仕草が、息を呑むほど艶っぽかった。
(いい身体をしている)
朝倉は、じっとその様子を見ていた。ゆかりは、その視線に男を感じたらしく、さらりとかわそうとした。
「すいません。こんなところで時間取らせてしまって…」
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「ふ―ん」
「大丈夫ですよ、ちゃんとメンテしてますし…」
向きになっているゆかりに朝倉は、戸惑い気味だった。
「会社にある分析機器は、皆、そうだというのですか」
「わかりません、それ以上詳しいことは…」
ゆかりは、言葉を濁した。いや、彼女の目は、他のことを考えているようにみえた。朝倉もそんなことはどうでもよかった。
「メ―カ―は、いいね。一台売れれば、それだけ売り上げも大きいから…」
「そんな簡単にはいきませんよ」
ゆかりは、声を出して笑った。朝倉もその言葉に釣り込まれるように笑ったが、急にゆかりの存在を身近に感じた。このままもっと話していたい。その気配がゆかりにも伝わったらしく、ゆかりは朝倉の方を見ながら、一歩踏み込むようにして言った。
「大丈夫ですよ、ちゃんとメンテしてますし…」
向きになっているゆかりに朝倉は、戸惑い気味だった。
「会社にある分析機器は、皆、そうだというのですか」
「わかりません、それ以上詳しいことは…」
ゆかりは、言葉を濁した。いや、彼女の目は、他のことを考えているようにみえた。朝倉もそんなことはどうでもよかった。
「メ―カ―は、いいね。一台売れれば、それだけ売り上げも大きいから…」
「そんな簡単にはいきませんよ」
ゆかりは、声を出して笑った。朝倉もその言葉に釣り込まれるように笑ったが、急にゆかりの存在を身近に感じた。このままもっと話していたい。その気配がゆかりにも伝わったらしく、ゆかりは朝倉の方を見ながら、一歩踏み込むようにして言った。
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「すると、今の仕事を選んだキッカケは?」
朝倉は興味が湧いた。
「給料がいいんです。他と比べて二万円ぐらいですけど…大きいですよ」
ゆかりは八重歯を見せて笑った。はじめてゆかりの顔が綻んだような気がした。
(二万円か、確かに大きい)
「会社としての知名度はありますし、それに会社が大きいということは働いていて安心感があります。でも逆に、それゆえにメンツみたいなところがありますね」
「どういう?」
「メ―カ―としては、他社が出している製品で、うちが出していないっていうのは困るんです。やはり品揃えとして必要ですから、まったくの赤字でも開発して販売しちゃうんです。今度の分析機器もそうです。全部にマイクロプロセッサ―が組み込まれていて、心臓部のIC回路は東芝や富士通で作りますが、その他の大したことない部分、例えば入出力回路などは韓国製なんです。そのほうがコストが安いですからね。まあ、さらに安くしようと思えばマレ―シア製とか…」
朝倉は興味が湧いた。
「給料がいいんです。他と比べて二万円ぐらいですけど…大きいですよ」
ゆかりは八重歯を見せて笑った。はじめてゆかりの顔が綻んだような気がした。
(二万円か、確かに大きい)
「会社としての知名度はありますし、それに会社が大きいということは働いていて安心感があります。でも逆に、それゆえにメンツみたいなところがありますね」
「どういう?」
「メ―カ―としては、他社が出している製品で、うちが出していないっていうのは困るんです。やはり品揃えとして必要ですから、まったくの赤字でも開発して販売しちゃうんです。今度の分析機器もそうです。全部にマイクロプロセッサ―が組み込まれていて、心臓部のIC回路は東芝や富士通で作りますが、その他の大したことない部分、例えば入出力回路などは韓国製なんです。そのほうがコストが安いですからね。まあ、さらに安くしようと思えばマレ―シア製とか…」
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若いほうの刑事は手帳から目を離すと、そのまま考え込んでしまった。今度は、間垣刑事がその先を引き取って、
「で、他に目撃されたようなことはありませんか。あるいは、気がつかれたこととか、どんな小さなことでも結構ですが…」
「そうですねぇ」
朝倉は、ちょっと考えながら、
「ああ、そういえば野次馬の一人が『俺は、見たんだ』とか言って騒いでいました」
「俺は、見た…ですか」
「ええ、僕が久保田さんを抱き起こしている時でした。何だかバカでかい声がするので、ふと見ると、その男が野次馬と何か話していました。結構、親しそうでしたから、すぐに顔見知りだと思ったんですが、それが…全く相手にされていないんです。男は、相当酒を飲んでいたとみえて、足許がフラフラでしたからね。だから酔っ払いの戯言ぐらいにしか、思われなかったんじゃないですか」
「で、他に目撃されたようなことはありませんか。あるいは、気がつかれたこととか、どんな小さなことでも結構ですが…」
「そうですねぇ」
朝倉は、ちょっと考えながら、
「ああ、そういえば野次馬の一人が『俺は、見たんだ』とか言って騒いでいました」
「俺は、見た…ですか」
「ええ、僕が久保田さんを抱き起こしている時でした。何だかバカでかい声がするので、ふと見ると、その男が野次馬と何か話していました。結構、親しそうでしたから、すぐに顔見知りだと思ったんですが、それが…全く相手にされていないんです。男は、相当酒を飲んでいたとみえて、足許がフラフラでしたからね。だから酔っ払いの戯言ぐらいにしか、思われなかったんじゃないですか」
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「仕事上のことです」
と答えた。間垣刑事は、険しい顔をしたが、再び若いほうの男が訊ねた。
「よほど大事なことだったとみえますな」
「……」
「その時被害者は、事故について何か言っていましたか? 例えば、他の車を避けようとして電柱にぶつかったとか、何かを目撃したとか…」
「はあ」
「隠さないで言って下さい」
「別に隠すつもりはありませんが、ちょっと自信がないんです。実は…本当かどうかわかりませんが、蝶が飛んでいたって言ったんです」
「蝶って、まさか、あの蝶ですか。こんな季節に? 聞き間違いじゃないんですか」
「ええ、僕もそう思って聞き直したんですが、確かにそう言いました。その後、すぐに意識が失くなったので、それ以上は…」
「ふむ」
と答えた。間垣刑事は、険しい顔をしたが、再び若いほうの男が訊ねた。
「よほど大事なことだったとみえますな」
「……」
「その時被害者は、事故について何か言っていましたか? 例えば、他の車を避けようとして電柱にぶつかったとか、何かを目撃したとか…」
「はあ」
「隠さないで言って下さい」
「別に隠すつもりはありませんが、ちょっと自信がないんです。実は…本当かどうかわかりませんが、蝶が飛んでいたって言ったんです」
「蝶って、まさか、あの蝶ですか。こんな季節に? 聞き間違いじゃないんですか」
「ええ、僕もそう思って聞き直したんですが、確かにそう言いました。その後、すぐに意識が失くなったので、それ以上は…」
「ふむ」
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不意にドアのノブの回転する音がしたので顔を上げると、コ―トを着た男がドアの傍に立ち、後ろにいるもう一人の男に声をかけながら、ゆっくりドアを押して入ってきた。その時、冷たい空気を一杯にはらんだ風が、口笛のような音を立てて舞った。二人の男は、コ―トを着たまま廊下を足早に歩き、オレンジ色の柱を右に曲がって消えたかと思うと、すぐに戻って来て今度は朝倉のほうに近づいてきた。
六十歳にはまだ間がありそうな肩幅の広い男の後ろから、眼鏡をかけた体格のいい若い男がついてくる。年配の男は、低い声で言った。
「失礼ですが、御家族の方ですか?」
「いえ」
朝倉は、怪訝そうな顔で男を見た。
「これは、失礼。板橋署の間垣といいますが…」
男は黒い手帳をポケットから覗かせると、鋭い視線を朝倉に向けた。背が高く、面長で物腰の柔らかそうな男だったが、服装には目を見張るものがあった。
六十歳にはまだ間がありそうな肩幅の広い男の後ろから、眼鏡をかけた体格のいい若い男がついてくる。年配の男は、低い声で言った。
「失礼ですが、御家族の方ですか?」
「いえ」
朝倉は、怪訝そうな顔で男を見た。
「これは、失礼。板橋署の間垣といいますが…」
男は黒い手帳をポケットから覗かせると、鋭い視線を朝倉に向けた。背が高く、面長で物腰の柔らかそうな男だったが、服装には目を見張るものがあった。
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「今日は、何を聞かれたんですか。警察は、何を言ってきたんですか」 と、久保田の上着をつかみながら、必死に話しかけた。細かい雨が、次第に久保田の頬を濡らし始める。その時久保田は、薄く眼を開けた。しかし、そのどろんとした眼に朝倉の姿が見えているのかどうか、わからなかった。久保田の口許が微かに動き、朝倉は、すぐさま自分の耳を久保田の口の辺りに近づけた。久保田は、何度も唇を湿らせながら、呻くように言った。
「蝶が…」
「蝶? 蝶がどうかしたんですか?」
久保田は、左手を宙に泳がせながら朝倉の袖を掴むと、
「蝶が飛んでいた」
と言った。
――こんな真冬に蝶が飛んでいるはずがない――
朝倉が再度尋ねると、久保田の腕は、濡れたダウン・ジャケットの袖を滑り落ちて、だらんと伸びきり、すでに意識がなかった。
「蝶が…」
「蝶? 蝶がどうかしたんですか?」
久保田は、左手を宙に泳がせながら朝倉の袖を掴むと、
「蝶が飛んでいた」
と言った。
――こんな真冬に蝶が飛んでいるはずがない――
朝倉が再度尋ねると、久保田の腕は、濡れたダウン・ジャケットの袖を滑り落ちて、だらんと伸びきり、すでに意識がなかった。
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「そんなことして、一体、何になるんですか?」
朝倉の思いつめたような表情に、小菅は目をしばたたかせた。
「まあ、落ち着けよ。まず言えることは、会社の人間の仕業じゃないってことだ。会社に不利になるようなことは、たとえ知っていても言わないものだよ。偶に内部告発という形で公になることもあるが、結果的には社員の損失につながるだけだと俺は思う。いずれにしろ、これから久保田君の家へ行くんだろ」
朝倉は、首を縦に振った。
「だったら、もう店を出よう」
「ええ、でも…」
「俺はいい。疲れも取れたし…。それに君を見ていると、ゆっくりコ―ヒ―なんて気分じゃなさそうだし…。この時間なら、彼も家に帰っている頃だろう」 小菅は、カウンタ―の正面の壁にかかっている小さな角形の電気時計に目を向けながら言った。金色の文字盤が九時五十四分を示していた。二人は席を立ち、ドアを開けて外に出ると、地下の駐車場に通じる坂の辺りで別れた。
朝倉の思いつめたような表情に、小菅は目をしばたたかせた。
「まあ、落ち着けよ。まず言えることは、会社の人間の仕業じゃないってことだ。会社に不利になるようなことは、たとえ知っていても言わないものだよ。偶に内部告発という形で公になることもあるが、結果的には社員の損失につながるだけだと俺は思う。いずれにしろ、これから久保田君の家へ行くんだろ」
朝倉は、首を縦に振った。
「だったら、もう店を出よう」
「ええ、でも…」
「俺はいい。疲れも取れたし…。それに君を見ていると、ゆっくりコ―ヒ―なんて気分じゃなさそうだし…。この時間なら、彼も家に帰っている頃だろう」 小菅は、カウンタ―の正面の壁にかかっている小さな角形の電気時計に目を向けながら言った。金色の文字盤が九時五十四分を示していた。二人は席を立ち、ドアを開けて外に出ると、地下の駐車場に通じる坂の辺りで別れた。
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「小菅さんのほうこそ、会社で何かあったような顔をしていますよ。どうしたんですか?」「いや―、別に大したことじゃないよ。それより、どうだったんだ?」
「実は、事情を聞かれたのが取調室だったんです。誰だってそんな所で聞かれたら、冷静じゃいられませんよ」
「それは穏やかじゃないな」
「空いている部室がないからって言われて…。怪しいと思いませんか」
「君はあのサンプリングで、何かヘマでもやったのかい?」
「いえ…。それよりも僕がわからないのは、何故、今頃になって警察に呼ばれなくちゃいけないのか、ということです。昭和工業の測定は、もう五ヶ月も前のことですよ」 「それは…、誰かがタレこんだんだろうな。目的はわからないが」
「実は、事情を聞かれたのが取調室だったんです。誰だってそんな所で聞かれたら、冷静じゃいられませんよ」
「それは穏やかじゃないな」
「空いている部室がないからって言われて…。怪しいと思いませんか」
「君はあのサンプリングで、何かヘマでもやったのかい?」
「いえ…。それよりも僕がわからないのは、何故、今頃になって警察に呼ばれなくちゃいけないのか、ということです。昭和工業の測定は、もう五ヶ月も前のことですよ」 「それは…、誰かがタレこんだんだろうな。目的はわからないが」

